鯨墓、鯨唄

こんにちは、長門市議会議員のひさなが信也です。


昨日は捕鯨文化について記事を書きましたが、

今日は、鯨墓について書きたいと思います。


●鯨墓の由来

古来、日本海に面した北浦地方は豊かな漁場に恵まれ、

特に通浦には冬季に鯨群の来遊することが多く、早くから捕鯨漁業が始まっていました。

捕鯨の方法は原始的で勇壮そのものでした。


一頭の鯨は、七浦を賑わすといわれており、

鯨を捕獲するたびに、

酒宴が張られ、太鼓を叩いて鯨唄を歌い、夜遅くまでにぎわったとされています。


このような華やかな反面、荒波に板子一枚に命を託して

多くの魚類を捕獲するため危険な仕事に従事することから、

自分の後世を願い、生物を憐み、その命を尊ぶといった面は、

非常に篤く、これが仏教信仰と結びついて信仰心に繋がっています。


鯨の親子の愛情は各別なものがあるといわれています。

いつも親子共々泳遊しているので、

鯨組はまず子鯨に全力をあげて捕獲するそうです。

親鯨は子鯨が忘れられず、何日もその場を離れないので、

ついに親も捕らわれたといいます。


子を思う親鯨の情けを哀れに思い、また、生計のためとはいえ、

生き物を殺める事に心を痛めた村人たちは、

捕獲した鯨に対して人間と同様に戒名をつけて菩薩に弔い、

親鯨の胎児には墓をつくり埋葬しました。


この墓が、観音堂(清月庵)境内にある「鯨墓」です。

観音堂の本寺である向岸寺には、

鯨の位牌と命日と戒名を記載した過去帳が保存され、

毎年4月27日より5日間「鯨回向の法要」として、

今日もなお盛大に営まれています。


なお、鯨碑の背後には、

元禄5年から明治初年までに葬られた鯨の胎児、

70頭あまりが眠っています。


墓の正面には大きく「南無阿弥陀仏」

その下に「業尽有情放雖不生 故宿人天同証仏果」

(業尽きし有情、放つと雖も生せず。故に人天に宿し、同じく仏果を証せしめん)

と、刻まれています。

この意味は、鯨としての生命は母鯨とともに終わり、

我等の手に捕らえられたが、

我々の目的は、本来お前たち胎児を取るつもりはない。

むしろ海中に逃がしてやりたいのだ。

しかし、汝独りを海へ放ってやっても、

とても生き得ないのである。

どうぞ哀れな子等よ、

我々人間とともに人間世界の習慣によって

念仏回向の功徳を受け、

諸行無常の諦観、

悟りをもってくれるようお願いするものです。



また、通浦の民謡「鯨唄」を初めて生で聞かせていただき、

その迫力に感動しました!



●鯨唄

この唄は、大漁を祝い、あるいはこれを祈って全ての集いに

歌いならしてきた労働歌であり、祝い歌でありました。


当時は祝宴では、一座の長老がこの鯨唄を歌ったあとでないと

他の者が鯨唄はもちろんのこと他の歌を歌うことが禁じられていたほどの

格式を持っていたと伝えられています。


当時の鯨組は、長州藩の水軍の役割を果たしていたもので、

一糸乱れぬ統制のもとに規律を重んじ、

礼儀を尊び、郵送果敢を旨としながらもその反面、

誠に愛情深く、哺乳動物である鯨に対する哀れみと

報恩感謝の真心がこの唄の中におりこまれているそうです。


一般的に、めでたい席で歌う祝い歌は、

手を叩いて調子をとりながら歌われますが、

この「鯨唄」に限っては、

鯨に対する恩恵と感謝の気持ちを表すとともに、

鯨の死を心から悼んで、

歌うときにも手を叩かず、

「揉み手」で行われるのもそうしたゆえんであり、

この唄が世界にも類のない、

全国的にも珍しい鯨墓とともに、

うるわしい、民情のシンボルとして、

また郷土の民謡として末永く愛称され、

歌いつがれてきたもので鯨組のなくなった今では

「鯨唄保存会」によって伝承されています。



ずっと伝承すべき、長門の大切な文化ですね!!


捕鯨や鯨墓のお話をきいて、

この文化にますます興味を持ちました。

これからは少しずつ学びながら、子どもたちに伝えていきたいと思います。




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もちろん、記事の内容に関わらず市政全般のことや、

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ひさなが信也

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