長州捕鯨の歴史
こんにちは、長門市議会議員のひさなが信也です。
今日は、捕鯨文化遺産とくじら食文化を守る長門市議会議員連盟の一員として、
くじら資料館の元館長さんに講義をしていただきました。
復習もかねて、今日習ったことを記事にしつつ、皆様にも興味を持っていただけたらうれしいなぁと思います。
以前、鯨肉郷土料理の記事でも触れましたが、
北浦海岸(山口県日本海岸)では、通・瀬戸崎(仙崎)、川尻を中心に、
「鯨組」が活躍していました。
「鯨組」の活躍は、江戸時代から明治時代まで二百数十年間続いたとされています。
捕鯨の方法は、原始的な弓取り法の時代の「流れ鯨」や「寄り鯨」を対象とする受動的なものから、
戦国時代の「突き取り法」へ発展し、更に後世になると一段と進歩した「網取り法」が普及しました。
日本の捕鯨史上、網取り法は紀州太地鯨組が延宝5年(1677)に始め、
土佐、肥前に伝わったとされていますが、
通浦においては同時期に強いからむし網を使用するなど、
北浦独自の発生とみられ、注目できるものです。
「鯨組」という大規模な組織を編成するには、
膨大な資金を必要としますが、
庄屋、網頭等の浦方上層支配階級がほとんどを占める株組織が形成され、
自浦以外の庄屋階級からも出資を仰ぎ、
更に藩府からの融資にも依存していました。
(藩とは持ちつ持たれつの関係だったみたいですが・・・)
経営形態は、長州捕鯨の場合、浦役人級(庄屋、年寄等)の支配層が中心となって
出資者兼経営者として経営主体となり、
浦民を労働者とする浦方共同体的な生産機構が主流をなし、
長州捕鯨独特の藩直営の形態も見られたようです。
北浦鯨組の規模は、創業当初の資料がなく、
幕末期の資料が参考とされています。
まず捕鯨船団では、鯨を網の中に追い込み、銛を突いて射とめる「追い船」8艘、
鯨を包囲する網を積み込んだ「惣階船」12艘、
射とめた鯨を2艘の船で抱いて浜へ帰る「持双船」4艘の
計24艘で総乗組員255人、陸上要員24人で、
鯨組の支配者である地下役員9人を加え、
従業員数は288人だったそうです。
これは、川尻鯨の場合ですが、
通浦、瀬戸崎もほぼ同様の規模だったと考えられています。
鯨組の経営、支配は数名の「網頭」が実験を握り
その権力と経済力は絶大だったとされています。
捕鯨労働者である漁夫にも職制があり、
10種類程度の職階制からなっていました。
川尻浦の場合で見ると
捕鯨作業の責任者を「沖合親仁(おきあいおやじ)」といい、
網作業、網船の指揮者が「網戸親仁(あみどおやじ)」であり、
沖作業人を監督し、その功績を評価したものが「宿老」と呼ばれました。
捕鯨技術要員のなかの花形は「刃刺(はざし)」とよばれ、
追い船の船首に立って銛を打ち込み、
厳寒の荒波に潜って手形包丁をふるって鯨の鼻を切るなど
生命をかけた職種でした。
長州藩当局においても、
全国的に数少ない捕鯨業を積極的に推奨し、
「鯨運上銀」の取り立てによる藩財政の強化を図りました。
その保護政策では、創業時における藩の指導監督、
資金の貸し下げ、港湾の改良整備、製品の買い上げ、
不漁による経営難に際しての資金及び従業員への飯米の貸し下げ、
藩主ら自らの上覧による精神的な奨励策、
網頭への名字帯刀の許可など、近世長州捕鯨の200年間は藩との関係は実に密接なものでした。
江戸末期になると不漁に見舞われて経営困難に陥り、
明治維新後の鯨組は、これまでの藩支配保護を離れて民間経営となり、
藩政時代からの多大な赤字をかかえたまま経営難におちいっていきました。
こうした中に明治9年より15年ごろまでに川尻浦を始めとし、
瀬戸崎浦、通浦で捕鯨業民主化の火の手が上がり、
通浦では明治15年に、通浦共同の物として認められ、
「通浦地下中」に対して「捕鯨営業鑑札」が下付されました。
明治40年に旧鯨組関係者を中心にほとんどが地元の出資による
「長門捕鯨株式会社」の創業をみるなど捕鯨近代化への過渡期の苦悩を内包しつつ、
各浦鯨組はいずれも明治40年頃には解散の憂き目にあい
独り自立経営を維持した川尻浦鯨会社も、ついに明治41年には
解散のやむなきにいたりました。
しかし、この北浦捕鯨の伝統を基盤として、
やがて近代的なノルウェー式捕鯨が発祥するという
輝かしい日本近代捕鯨史が、
この北浦を舞台に展開されてきました。
歴史を探ると、次から次に興味がわいてきます!!
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