土俵の歴史。
こんにちは、長門市議会議員のひさなが信也です。
わんぱく相撲長門場所が明日に迫った今日、
会場である飯山八幡宮にて前日準備を行いました。
前日準備といっても、
備品の確認や、翌日の打ち合わせがほとんどでした。
今日はまだ土俵にはブルーシートがかかっていて、
土俵がオープンになるのは明日です。
近所に住んでいながら、
実はこの土俵がオープンになっているのを僕は見たことがありません・・・。
土俵といえばすごく神聖なものであるということは、
元力士さんから話をうかがったことがあります。
その神聖な土俵で明日、
子ども達が精いっぱい相撲をとるのだと思うと、
こちらもわくわくしてきます。
本番を前に、土俵とはいったいどんなものなのか、
その歴史について少し興味がわき、
簡単ではありますが、検索をしました。
今日の内容は、あまり長門のこととは関係なく、
「土俵」ってなんだろうという記事にいたします。
ネットなどで調べたほうがわかりやすいかもしれませんが、
もし興味があれば、最後までお付き合いいただけるとうれしいです。
●土俵の歴史
相撲において古来(奈良・平安時代)、
土俵というものはなかった。
『相撲伝書』によると鎌倉時代に見物人が
直径7 - 9メートル(4 - 5間)の輪を作り、
これを「人方屋」と称したという。
これが土俵の起源である。
江戸時代に大相撲興行が始まり、
「人方屋」では特定の力士の贔屓が手を出して
勝負を妨害するなど喧嘩が絶えなかった。
このため、まず寛文年間(1661 - 1673年)に
リングのように4本の柱の下に紐などで囲ったものになった。
それを俵で囲んだものとなり、四角い土俵になった。
なお四角い土俵は各地の神社や南部相撲などに現存し使用されている。
次に大相撲では延宝年間(1673 - 1681年)に、
東屋作りの屋根の下に四神を表す4色の布を巻いていた柱の方屋の下に、
五斗俵による3.94メートル(13尺)の丸い土俵が設けられた。
享保年間(1716 - 1736年)、
俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。
これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」ともいう)となった。
これは内円に16俵、外円に20俵いることから「36俵」と呼ばれた。
1791年(寛政3年6月11日)、
江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の上覧相撲に際して、
吉田司家の吉田追風が前日に一夜で土俵を作り、
初めて「方屋開」を行った。
明治に方屋の屋根を神明造りにした。
1928年(昭和3年)1月12日からNHKのラジオ放送による大相撲中継が始まった際、
放送時間内に勝負を収めるために、
それまでは無制限だった仕切りに制限時間を設定。
土俵に仕切り線を設けた。
1930年(昭和5年)3月場所になると、
観客の視界の妨げになること、力士の怪我の原因になることを理由に、
土俵上に座っていた勝負検査役を土俵下におろし、5人とした。
また方屋柱に塩桶をくくりつけた。
さらに、1931年(昭和6年)4月の天覧相撲の際、
二重土俵の内円をなくし径4.55メートル(15尺)の一重土俵に変更された。
俵の外側の蛇の目の砂は、元々二重土俵の俵の間に撒かれていたが、
この時より俵の外側に撒かれる様になったものである[5]。
なぜ13尺土俵から15尺土俵になったかという理由については、
当時の文献には全く書かれていない。
男女ノ川、天竜、武蔵山、出羽ヶ嶽などの6尺(約182センチメートル)を
優に超える大型力士が台頭したため、あまり早く勝負が決まらないようにして、
少しでも相撲を面白く見せるためであったという説が有力である。
土俵サイズは、1945年(昭和20年)の秋場所において
4.84メートル(16尺)にしたが、力士会の反対で11月の一場所かぎりで
径4.55メートル(15尺)の現在の土俵に変更された。
また土俵上の柱は1952年(昭和27年)秋場所より撤去され、
屋根は天井から吊り下げる形式に変更された
※Wikipediaより抜粋(一部編集しています)
土俵の歴史は深いですが、
昭和になってから今の大きさになったというのは
検索してみて初めて知りました。
あまり中身がある内容ではありませんが、
明日の本番は、せっかく今日知ったことを踏まえて、
わんぱく相撲長門場所の運営に励みたいと思います!
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